背中に伝統。前に未来。
背中に伝統。
前に未来。
これまで、今、
そしてこれからの藤田のお話
これまで、今、
そしてこれからの
藤田のお話
私たちの始まり
私たちの始まり
山形市十日町で、創業二百二十年
江戸時代、文化文政(1804年)
今から220年前に、創業者、藤田長兵衛は関西の商売の街、近江から山形に入り、
今では郷土名産となった紅花づくりをはじめました。
その後、商売代えをし、紅花を船積みの際に濡れないように包む油紙の製造販売を営み、
関連の防水商品「合羽(かっぱ・雨具)」を販売し、瞬く間に売れていきました。
藤田長兵衛の愛称も、合羽+長兵衛で「合羽長!」と周囲に名前が通るほどでした。
因みに当時の商家では、代々家長が襲名をしており、
当家の長兵衛という名は七代目まで受け継がれております。
そして時代は昭和へと移りかわっていきます。
山形市十日町で、創業二百二十年
江戸時代、文化文政(1804年)今から220年前に、創業者、藤田長兵衛は関西の商売の街、近江から山形に入り、今では郷土名産となった紅花づくりをはじめました。その後、商売代えをし、紅花を船積みの際に濡れないように包む油紙の製造販売を営み、関連の防水商品「合羽(かっぱ・雨具)」を販売し、瞬く間に売れていきました。
藤田長兵衛の愛称も、合羽+長兵衛で「合羽長!」と周囲に名前が通るほどでした。因みに当時の商家では、代々家長が襲名をしており、当家の長兵衛という名は七代目まで受け継がれております。そして時代は昭和へと移りかわっていきます。
江戸時代、文化文政(1804年)今から220年前に、創業者、藤田長兵衛は関西の商売の街、近江から山形に入り、今では郷土名産となった紅花づくりをはじめました。その後、商売代えをし、紅花を船積みの際に濡れないように包む油紙の製造販売を営み、関連の防水商品「合羽(かっぱ・雨具)」を販売し、瞬く間に売れていきました。
藤田長兵衛の愛称も、合羽+長兵衛で「合羽長!」と周囲に名前が通るほどでした。因みに当時の商家では、代々家長が襲名をしており、当家の長兵衛という名は七代目まで受け継がれております。そして時代は昭和へと移りかわっていきます。
移りゆく時代に
生まれた想い
生まれた想い
移りゆく時代に
生まれた想い
生まれた想い
太平洋戦争明けの貧しく食べていくのに必死な時代。
当家八代目の藤田吉治と徴兵から戻った九代目藤田信夫が話し合いました。
「地元のお客様のおかげで今日がある!」
「もっとお客様のお役に立てる品物を揃えるべきだ!」
当時は食べ物も不足していましたが、その貴重な食料を持ち運べる袋物や鞄も不足していました。
とにかく、物が無い時代でした。
九代目信夫は機関車に乗って遠方まで仕入れに行っては、
帰りは乗車を待つ長蛇の列の先頭に立ち、仕入れた品物を置くための場所取りに奮闘しました。
乗車後も盗難を避ける為に、12時間以上一睡もする事なく、品物を見張り、
大切に抱えながら山形までの道のりを往復しました。
昭和32年、5月8日(1957年)
八代目吉治と九代目信夫はついに鞄専門店として会社を設立します。
おもに販売の中核になりつつあった鞄が当時の流行の追い風もあって実現することとなります。
当家八代目の藤田吉治と徴兵から戻った九代目藤田信夫が話し合いました。
「地元のお客様のおかげで今日がある!」
「もっとお客様のお役に立てる品物を揃えるべきだ!」
当時は食べ物も不足していましたが、その貴重な食料を持ち運べる袋物や鞄も不足していました。
とにかく、物が無い時代でした。
九代目信夫は機関車に乗って遠方まで仕入れに行っては、
帰りは乗車を待つ長蛇の列の先頭に立ち、仕入れた品物を置くための場所取りに奮闘しました。
乗車後も盗難を避ける為に、12時間以上一睡もする事なく、品物を見張り、
大切に抱えながら山形までの道のりを往復しました。
昭和32年、5月8日(1957年)
八代目吉治と九代目信夫はついに鞄専門店として会社を設立します。
おもに販売の中核になりつつあった鞄が当時の流行の追い風もあって実現することとなります。
太平洋戦争明けの貧しく食べていくのに必死な時代。当家八代目の藤田吉治と徴兵から戻った九代目藤田信夫が話し合いました。「地元のお客様のおかげで今日がある!」「もっとお客様のお役に立てる品物を揃えるべきだ!」当時は食べ物も不足していましたが、その貴重な食料を持ち運べる袋物や鞄も不足していました。とにかく、物が無い時代でした。
九代目信夫は機関車に乗って遠方まで仕入れに行っては、帰りは乗車を待つ長蛇の列の先頭に立ち、仕入れた品物を置くための場所取りに奮闘しました。乗車後も盗難を避ける為に、12時間以上一睡もする事なく、品物を見張り、大切に抱えながら山形までの道のりを往復しました。
昭和32年、5月8日(1957年)八代目吉治と九代目信夫はついに鞄専門店として会社を設立します。おもに販売の中核になりつつあった鞄が当時の流行の追い風もあって実現することとなります。
九代目信夫は機関車に乗って遠方まで仕入れに行っては、帰りは乗車を待つ長蛇の列の先頭に立ち、仕入れた品物を置くための場所取りに奮闘しました。乗車後も盗難を避ける為に、12時間以上一睡もする事なく、品物を見張り、大切に抱えながら山形までの道のりを往復しました。
昭和32年、5月8日(1957年)八代目吉治と九代目信夫はついに鞄専門店として会社を設立します。おもに販売の中核になりつつあった鞄が当時の流行の追い風もあって実現することとなります。
四季を一緒に乗り越えるランドセル
四季を一緒に
乗り越えるランドセル
乗り越えるランドセル
その後、代表取締役に就いた九代目藤田信夫は、
自分が丁稚奉公からの小僧出であるという事もあり、
「戦後の貧しいこども達を少しでも楽に!」「明るい未来を担うこども達に何かできる事はないか!」
と何度も考え抜き、ランドセルを作る事を決意します。
山形の四季ははっきりしていて、夏の最高気温は40.8℃、冬は寒くて雪も多く、
積雪量の多い地域では、ひと冬で5mを超える時もあります。
この様な過酷な環境下で6年間使用しても、丈夫で形崩れする事無く
雨や雪に強いランドセルを作らなければなりません。
自分が丁稚奉公からの小僧出であるという事もあり、
「戦後の貧しいこども達を少しでも楽に!」「明るい未来を担うこども達に何かできる事はないか!」
と何度も考え抜き、ランドセルを作る事を決意します。
山形の四季ははっきりしていて、夏の最高気温は40.8℃、冬は寒くて雪も多く、
積雪量の多い地域では、ひと冬で5mを超える時もあります。
この様な過酷な環境下で6年間使用しても、丈夫で形崩れする事無く
雨や雪に強いランドセルを作らなければなりません。
その後、代表取締役に就いた九代目藤田信夫は、自分が丁稚奉公からの小僧出であるという事もあり、「戦後の貧しいこども達を少しでも楽に!」「明るい未来を担うこども達に何かできる事はないか!」と何度も考え抜き、ランドセルを作る事を決意します。
山形の四季ははっきりしていて、夏の最高気温は40.8℃、冬は寒くて雪も多く、積雪量の多い地域では、ひと冬で5mを超える時もあります。この様な過酷な環境下で6年間使用しても、丈夫で形崩れする事無く雨や雪に強いランドセルを作らなければなりません。
山形の四季ははっきりしていて、夏の最高気温は40.8℃、冬は寒くて雪も多く、積雪量の多い地域では、ひと冬で5mを超える時もあります。この様な過酷な環境下で6年間使用しても、丈夫で形崩れする事無く雨や雪に強いランドセルを作らなければなりません。
仕立ての良い
ランドセルを探して
ランドセルを探して
仕立ての良い
ランドセルを探して
ランドセルを探して
九代目信夫は、東京、名古屋、大阪を巡り、仕立ての良いランドセルや鞄を見つけては
「こちらを仕立てた職人さんは、どなたですか。」と、
お店に聞きながら、なんとか品物を譲ってもらうと、
品物を抱えながら仲買人や卸問屋を人づてに回り、
作り手の職人さんを見つける為に、情報集めに奔走を繰り返しました。
現在のようにインターネットが無い時代です。
情報を集めるには自分自身の良品を見定める目利きだけが頼りでした。
「こちらを仕立てた職人さんは、どなたですか。」と、
お店に聞きながら、なんとか品物を譲ってもらうと、
品物を抱えながら仲買人や卸問屋を人づてに回り、
作り手の職人さんを見つける為に、情報集めに奔走を繰り返しました。
現在のようにインターネットが無い時代です。
情報を集めるには自分自身の良品を見定める目利きだけが頼りでした。
九代目信夫は、東京、名古屋、大阪を巡り、仕立ての良いランドセルや鞄を見つけては「こちらを仕立てた職人さんは、どなたですか。」と、お店に聞きながら、なんとか品物を譲ってもらうと、品物を抱えながら仲買人や卸問屋を人づてに回り、作り手の職人さんを見つける為に、情報集めに奔走を繰り返しました。
現在のようにインターネットが無い時代です。情報を集めるには自分自身の良品を見定める目利きだけが頼りでした。
現在のようにインターネットが無い時代です。情報を集めるには自分自身の良品を見定める目利きだけが頼りでした。
職人技と大きな壁
職人技と大きな壁
やっとの思いで、「これだ!」という絶品の作り手職人、
名人の工場を突き止めました。
早速行ってみると今度は会ってくれません。
今でも職人技と言う言葉があるように、当時から職人たちの技術は大変貴重なもので、
簡単に見せてもらえたり、教えてもらえるものではありません。
そこで信夫は通い詰めます。
会ってもらえるまで縁側の雑巾掛けから始まり雑用を必死にこなす毎日が続きます。
名人の工場を突き止めました。
早速行ってみると今度は会ってくれません。
今でも職人技と言う言葉があるように、当時から職人たちの技術は大変貴重なもので、
簡単に見せてもらえたり、教えてもらえるものではありません。
そこで信夫は通い詰めます。
会ってもらえるまで縁側の雑巾掛けから始まり雑用を必死にこなす毎日が続きます。
やっとの思いで、「これだ!」という絶品の作り手職人、名人の工場を突き止めました。早速行ってみると今度は会ってくれません。今でも職人技と言う言葉があるように、当時から職人たちの技術は大変貴重なもので、簡単に見せてもらえたり、教えてもらえるものではありません。
そこで信夫は通い詰めます。会ってもらえるまで縁側の雑巾掛けから始まり雑用を必死にこなす毎日が続きます。
そこで信夫は通い詰めます。会ってもらえるまで縁側の雑巾掛けから始まり雑用を必死にこなす毎日が続きます。
感謝と技術を受け継いで
感謝と技術を
受け継いで
受け継いで
そんな姿を評価してもらったのか、やっと名人から声がかかり、
手縫い、ミシンの掛け方、素材の選び方、素材の使い方、全ての手解きを受けることが出来ました。
現在は、各種コンクールにおいて、文部大臣賞連続7回、
通産大臣賞、東京都知事賞11回、経済産業大臣賞等、数々の賞を受賞している
日本最高峰の御用達職人の協力を仰ぎ、当時から受け継いだ想いを形にしております。
長い間たくさんの地元のお客さまにお使いいただき、
カバン屋で作るランドセルとして今年で70年目となります。
山形の地方のカバン屋ではございますが、こうやって歴史を振り返りますと、
長きに渡り商売をやってこれたのは、お客さまと全てまわりの方々のご支援のお陰と、
毎日ありがたく思っております。
心より、感謝の気持ちを込めて
藤田鞄店 十一代目 藤田宏基
手縫い、ミシンの掛け方、素材の選び方、素材の使い方、全ての手解きを受けることが出来ました。
現在は、各種コンクールにおいて、文部大臣賞連続7回、
通産大臣賞、東京都知事賞11回、経済産業大臣賞等、数々の賞を受賞している
日本最高峰の御用達職人の協力を仰ぎ、当時から受け継いだ想いを形にしております。
長い間たくさんの地元のお客さまにお使いいただき、
カバン屋で作るランドセルとして今年で70年目となります。
山形の地方のカバン屋ではございますが、こうやって歴史を振り返りますと、
長きに渡り商売をやってこれたのは、お客さまと全てまわりの方々のご支援のお陰と、
毎日ありがたく思っております。
心より、感謝の気持ちを込めて
藤田鞄店 十一代目 藤田宏基
そんな姿を評価してもらったのか、やっと名人から声がかかり、手縫い、ミシンの掛け方、素材の選び方、素材の使い方、全ての手解きを受けることが出来ました。
現在は、各種コンクールにおいて、文部大臣賞連続7回、通産大臣賞、東京都知事賞11回、経済産業大臣賞等、数々の賞を受賞している日本最高峰の御用達職人の協力を仰ぎ、当時から受け継いだ想いを形にしております。
長い間たくさんの地元のお客さまにお使いいただき、カバン屋で作るランドセルとして今年で70年目となります。山形の地方のカバン屋ではございますが、こうやって歴史を振り返りますと、長きに渡り商売をやってこれたのは、お客さまと全てまわりの方々のご支援のお陰と、毎日ありがたく思っております。
心より、感謝の気持ちを込めて
藤田鞄店 十一代目 藤田宏基
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0120-231-034
(10:00~17:30)
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